ドイツ生まれの理論物理学者(相対性理論)E=mc²
アインシュタインといえば、相対性理論の人ですよね。
「時間は人によって流れ方が違う」つまり相対的なものということ。
あなた自身が速く動けば動くほど、周囲に対する時間の流れが遅くなる。
E=mc² だそうです
(E…エネルギー、m…重さ、c…光の速度)
難しいからよくわからないけど…
とにかく「舌を出した顔」で有名な天才物理学者です。
アインシュタインの残した言葉を読むことで、考え方や思っていたことが、わかるような気がします。
頭が良すぎるがゆえの、孤独や苦悩もあったのでしょうね。
個人的に「なんか、いいなぁ」と思った言葉を、独断と偏見でいくつか紹介します。
わたし、そして、わたしのまわりの人について
わたしは天才ではありません。ただ、人より長くひとつのこととつき合ってきただけです。
わたしには、特殊な才能はありません。ただ、熱狂的な好奇心があるだけです。
わたしは、自然について少し理解していますが、人間については、ほとんどまったく理解していません。
わたしは、一日100回は、自分に言い聞かせます。わたしの精神的ならびに物質的生活は、他者の労働の上に成り立っているということを。
わたしは、人間関係の変わりやすさがわかるようになりました。そして、冷たさや熱さから身を遠ざけることを学びました。そうすれば、温度のバランスがかなりよくとれるので。
人は、海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて、悪意に満ちている。ここで知っておかなければならないのは、人間もほとんどが水で構成されているということです。
人生について
自分自身の、そして他の人々の人生に意味を見だせない人は、単に不幸であるばかりでなく、生きるのに向いていないと言えましょう。
無限なものは2つあります。宇宙と人間の愚かさ。前者については、断言できませんが。
人間は、孤独な存在であるのと同時に、社会的な存在なのです。
常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う。
ある偶然の出来事を維持しようとする不幸な試みを結婚と言う。
異性に心を奪われることは、大きな喜びであり、必要不可欠なことです。しかし、それが人生の中心事になってはいけません。もし、そうなったら、人は道を見失ってしまうことでしょう。
どうして、自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、いいじゃないですか。
わたしは、先のことなど考えたことがありません。すぐに来てしまうのですから。
死はいずれやってくる。それがいつかなんて、どうでもいいじゃないですか。
われわれが進もうとしている道が正しいかどうかを、神は前もって教えてくれない。
哲学、そして、人間性について
われわれはいろいろなことをするが、なぜそうするのかは知らない。
手段は完全になったというのに、肝心の目的がよくわからなくなったというのが、この時代の特徴と言えるでしょう。
人間性について絶望してはいけません。なぜなら、わたしたちは人間なのですから。
人はみな、自らの宇宙論をもっています。そして、誰もが自分の理論は正しいと言うことができます。
身を切るような体験を通して、わたしたちは学びました。合理的に思考したからといって、社会生活に生じる問題がすべて解決できるわけではない、ということを。
信念は、推進力としては役に立つが、調整器としては役に立たない。
精神を大切にするというのなら、それとつながっている身体も大切にしなければなりません。
人間の真の価値は、おもに、自己からの解放の度合いによって決まる。
自然科学とその研究について
驚異というべきは、この地球上の、わたしたちが生きる環境です。
深く追求すればするほど、知らなくてはならないことが見つかる。人間の命が続く限り、常にそうだろうとわたしは思う。
大切なのは、疑問をもち続けること。
過去、現在、未来の区別は、どんなに言い張っても、単なる幻想である。
熱いストーブに1分間手をのせてみてください。まるで1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところが、かわいい女の子といっしょに1時間座っていても、1分間ぐらいにしか感じられません。それが、相対性と言うものです。
すべての物理学の理論は、数式は別にして「子どもでさえも理解できるように」簡単に説明すべきである。
結果というものにたどり着けるのは、偏熱狂だけである。
私は、あまり人付き合いしませんし、家庭的でもありません。私は平和に暮らしたい。私が知りたいのは、神がどうやってこの世界を創造したかと言うことです。私が知りたいのは神の思考であって、その他の事は些細なことなのです。
わたしたちはいつか、今より少しはものごとを知っているようになるかもしれない。しかし、自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう。
倫理、道徳、宗教について
道徳は、最も重要なことです。神にとってではなく、わたしたちにとって。
野望や、ただの義務感からは本当に価値のあるものは生まれません。それは、人や対象となる物への愛と献身から芽生えます。
純粋なものが純粋さを見るところに、豚は汚れを見る。
神の前では、われわれは平等に賢く、平等に愚かです。
学習、教育について
何かを学ぶためには、自分で体験する以上にいい方法は無い。
学ぶこと、そして一般的に、真実と美を追求することは、われわれが一生子どもでいることを許されている活動範囲である。
自分の目でものを見、自分の心で感じる人間がいかに少ないことか。
想像力は、知識よりも大切だ。知識には限界がある。想像力は、世界を包み込む。
知恵とは、学校で学べるものではなく、一生をかけて身につけるべきものです。
政治、戦争、平和について
どんな政治も、ある程度は邪悪なものである。
国家は、現代における偶像となっています。その催眠術を逃れることのできる人はほとんどいません。
人の邪悪な心を変えるより、プルトニウムの性質を変えるほうがやさしい。
羊の群れの完全無欠の一員になるには、まず、とにもかくにも、自分自身が羊になることである。
少数派が持つ唯一の防衛手段は、消極的抵抗である。
暴力が障害物を速やかに一掃してしまうことはある。しかし、暴力そのものが創造的であると証明されたことは一度もない。
ふたたび、私自身について
賞賛による堕落から逃れる方法はただひとつ。仕事を続けることである。
人々が努力して手に入れようとする陳腐なもの、所有、物質的な成功、贅沢、は私には少年時代から卑しむべきものに思われてきました。
わたしは誰にも何も求めないで幸せでいられます。お金もどうでもいい。勲章も、肩書も、名誉も、私には何の意味もありません。賞賛もほしくありません。
もし、わたしが物理学者にならなかったら、おそらく音楽家になっていたでしょう。
わたしは、真の「孤独な旅人」です。
私は、どんな国にも、友人たちの集団にも、家族にさえも、心から帰属したことありません。これらと結びつくことに、常に漠然とした違和感を感じていて、自分自身の中に引きこもりたいという思いが、年とともに募っていきました。
わたしは今、孤独の中に生きています。若者には苦痛だが、成熟した人間にとっては、甘美な孤独の中に。
年老いて腰が曲がったものには、死は解放としてやってきます。自分自身が年老いて、死を、最後には返さなければならぬ古い借金のようなものだと思うようになった今、つくづくそう感じます。
わたしにあるのは、ラバのような頑固さだけだ。いや、それだけではない。嗅覚もだ。
わたしが何気なく口にした言葉のひとつひとつが、素早く記録されてしまうことになろうとは、思いもよりませんでした。もし、知っていたなら、わたしは殻の奥深くへ逃げ込んでいたでしょう。
素人がわたしの業績の意義について誇張された印象を持ってしまったとしても、わたしのせいではありません。それは、通俗科学読み物の書き手や、とりわけ、あらゆることをできる限りセンセーショナルに扱う新聞記者たちのせいです。
私の感想(共感する部分が多かった)
人生は、長い長い「孤独な旅」だと私も感じています。
「人間なんてタンパク質の固まりだろ?」とも思っていました(笑)
なんやかんか言うても「ほぼ水分」なんだと思うと、なんか面白いですね!!
うんうん!と頷きながら、深く共感した私も天才かもしれません(笑)
私の疑問(余談です)
私がず~っと疑問に思っている相対性理論?があります。
毎日がとても楽しくて、あっという間に1日が過ぎてしまう人。
毎日がつらく苦しくて、1日が長いと思いながら生きている人。
この2種類の人間の「年の取り方」は、同じなのだろうか?
時間の経つ感覚は違うけど、実際に経過した時間は同じですよね。
身体や見た目に違いが出るのだろうか?どっちが若いのだろう?そんなことを考えています。
というのも、私がずっと「精神と時の部屋」で生きてきたみたいなものですから(笑)
※わからない人は調べてくださいね
schizoid-personality.hatenablog.com